福岡高等裁判所那覇支部 平成6年(ネ)36号 判決 1995年12月12日
控訴人
硫黄鳥島入会組合
右代表者組合長
東江芳隆
右訴訟代理人弁護士
新里恵二
同
根本孔衛
被控訴人
国
右代表者法務大臣
宮沢弘
被控訴人
具志川村
右代表者村長
野村時雄
被控訴人両名指定代理人
須田啓之
同
崎山英二
同
浦田重男
同
屋良朝郎
同
呉屋育子
被控訴人国指定代理人
梅田一弘
同
溝口昭治
同
古木輝雄
同
吐合政吾
同
日高幸雄
同
田端善次
被控訴人具志川村訴訟代理人弁護士
冝保安浩
同
大城弘
同
當真良明
理由
第一 本案前の争点について
一 争点<1>について
〔証拠略〕によると、控訴人は、組合員又はその祖先が本件係争地を総有していたことを前提として、組合員全員の福祉向上のため、本件係争地を適正に管理運営することを目的として昭和六二年一〇月一八日の組合結成総会で設立されたものであり、旧慣習に基づくとされる組合規約により、組合員の資格(三条)、組合員の権利義務(四条)、組合の機関の種類(六条)、総会の権限等(七ないし一〇条)、総代会の権限等(一一ないし一三条)、組合長及び副組合長の職務及び権限(一四条)、組合の財政(一九条)などが定められ、右組合結成総会において組合員一二六名が確認され、東江芳隆が組合長に選出されたことが認められる。これによると、控訴人は、団体としての組織を備え、組合員の資格、代表者の定め、総会の運営、財産の管理その他主要な点が規約によって決められ、構成員の変動にかかわらず団体として存続し、個々の組合員から独立した独自の社会的存在であると認めるのが相当であるから、控訴人は、いわゆる権利能力なき社団として、民訴法四六条により当事者能力を有するものというべきである。
二 争点<2>について
前記各証拠によると、控訴人は、第二次移住時に硫黄鳥島に居住していた三一所帯の各代表者(以下「原始組合員」という。)三一名のほか、原始組合員の承認の下、組合規約に基づく組合員として認められた九五名、以上合計一二六名の組合員から成るものであることが認められる。しかるところ、控訴人は、本件係争地は硫黄鳥島の旧鳥島部落から鳥島村へ、鳥島村から字鳥島へ、字鳥島から硫黄鳥島区へと順次承継され、第二次移住時の硫黄鳥島区の三一所帯の住民の総有に帰した後、控訴人の結成により、組合員一二六名の総有に属するに至ったと主張しているのであるから、控訴人が、原始組合員三一名を含む権利能力なき社団である以上、本件係争地が右一二六名の総有に属することの確認を請求するについて当事者適格を有するものというべきである。
被控訴人らは、控訴人は硫黄鳥島を離れて約二七年も経過してから本件入会権の確認を求めてたきたものであり、控訴人による本件係争地の共同利用形態は存在せず、部落共同体たる事実も存しないから、入会団体としての実体は全くなく、当事者適格を欠く旨主張するけれども、前記のとおり、控訴人は、所属の組合員一二六名が本件係争地を総有すると主張する権利能力なき社団であり、しかも、本件入会権は共有の性質を有する入会権であると主張している以上、控訴人が入会団体としての実体を欠くかどうかは、本件係争地が控訴人の組合員全員の総有に属しているか否かにほかならず、本案の問題に帰着するものというべきであるから、被控訴人らの主張は採用できない。
被控訴人らは、仮に控訴人主張の入会団体が存在するとしても、その構成員は原始組合員に限られるところ、控訴人にはそれ以外の組合員が全構成員の約七五パーセント含まれていて、これらの組合員は、組合規約により新規に認められたにすぎず、慣習的事実に基づくものではないから、このような組合員が構成員の一部となっている控訴人には当事者適格がない旨主張するけれども、そもそも原始組合員全員のみから成る組合であれば、原始組合員全員又は組合のいずれが原告になるかは別として、本件のような訴訟を提起できることは明らかであり、そうだとすると、控訴人の中に原始組合員全員が含まれている以上、他にそうでない組合員が含まれていたとしても、控訴人の当事者適格に欠けるところにはないと解されるから、被控訴人らの主張は採用できない。
なお、〔証拠略〕によると、控訴人は、平成元年一〇月二九日の臨時総会において、組合員一二六名全員の承認により、同年二月一一日に控訴人(代表者組合長東江芳隆)から提起された本件訴訟を追認する旨の確認決議がされたことが認められ、これによると、右確認決議により、控訴人の代表者として組合長東江芳隆が本件訴訟を追行することについて組合員一二六名全員からの授権があったものというべきである。もっとも、右確認決議後、当審に至って訴えの交換的変更があったが、それは、控訴人の当審における請求についても効力を有するものと解される。
三 争点<3>について
控訴人は、本件係争地が組合員一二六名の総有に属することの確認を請求するところ、本件係争地の範囲について、硫黄鳥島全体のうち、別紙物件目録二記載の国有地を除くすべての土地であると主張しており、これをもって右確認請求の特定としては足りるものというべきである。
なお、控訴人は、被控訴人国をも被告として本件係争地が組合員一二六名の総有に属することの確認を請求しているところ、弁論の全趣旨に徴すると、控訴人と同被控訴人との間には、本件係争地中に同被控訴人の所有する里道の有無・範囲をめぐって争いがあり、この点について、控訴人は、本件係争地中には里道が全くないと主張し、同被控訴人は、これを争っているものであるから、同被控訴人を被告として右確認請求をする訴えの利益が存するということができる。
第二 本案の争点について
一 〔証拠略〕によって認められる事実は、次のとおりである。
1 硫黄鳥島は、東経一二八度一五分、北緯二七度五〇分に位置する面積二・五五平方キロメートル、周囲約四キロの小さな孤島であるが、琉球王朝時代から硫黄鉱山があり、明治初期のいわゆる琉球処分以降、琉球藩又は沖縄県の統治の下、精練硫黄一万五〇〇〇斤の上納が課される代わりに(ただし、明治二一年から免除されるようになった。)、地租が免除されていた。同一三年の沖縄県の調査によると、硫黄鳥島には六五戸、五〇八人が居住していたとされている。
硫黄鳥島は、畑地が少ないため、食糧を自給できず、硫黄上納の残り分や近海で採れた魚介類を売却して得た金銭で食料を補うとともに、明治一二年から同一五年まで毎年、沖縄県から救助米三〇〇石を受ける(同一六年に救助米の制度は廃止され、それに代えて、今後三か年分の救助米合計九〇〇石に相当する現金一五〇〇円が支給され、島民の生活援助の基金として活用された。)などの状況にあった。
2 明治三〇年に沖縄県間切島吏員規程が、同三一年に沖縄県間切島規程が制定され、従来の地方制度が改められて、間切及び島は、公法人となり、官の監督を受けて法律命令の範囲内での公共事務を行い、法律又は慣列に従って間切・島に属する事務を処理するようになった。そして、間切及び島には、間切長・島長、収入役、書記その他の吏員が置かれ、議決機関として間切会・島会が設置された。硫黄鳥島は、右にいう島の一つとして公法人となり、島会をもち、監督官庁の指揮下、歳入出予算の議定、島有不動産の処分及び譲受、島有基本財産等の処分を行うことができるようになった。
明治三二年、沖縄県土地整理法が制定され、同三六年までに、本土の地租改正に相当する土地整理が行われ、これにより、一定の要件に該当するものが私有地とされたほか、「間切山野、村山野、浮得地、保管地、馬場、牧場及び間切役場の敷地等はその区、区の字、間切、村又はその権利を承継したる者の所有とす。」(同法一三条)と定められ、同法の施行に関して硫黄鳥島は間切に準ずるものとされた(同法二五条)。硫黄鳥島における土地整理の結果は必ずしも判然としないが、当時の硫黄鳥島が帰属していた島尻郡の郡長である齋藤用之助(以下「齋藤」という。)が記した「鳥島移住始末」によると、「役場敷地五畝二坪 島有山林二九町二反七畝二五歩 島有池沼三畝六歩 島有拝所二反六歩 宅地三町五反二五歩 畑地三八町二反七畝一九歩 山林三町五反八畝一一歩 原野一四町六反八畝六歩 墳墓地四反六畝二六歩九合七勺 硫黄鉱山特許坪数七万九六四一坪」と記載されている。
3 明治三六年四月、硫黄鳥島北端の通称硫黄山が噴火した。その噴煙鳴動は猛烈を極め、降灰が全島に及んだ。硫黄鳥島の住民から移住の嘆願がされ、国庫金一万七三〇〇円余の援助を受けて、部落全体が久米島具志川間切大田村内に鳥島村を立村して移住することになった
この第一次移住に当たり、同年九月四日、島会において満場一致をもって次のような内容の島会決議がされた。
(1) 移住後は間切の一部落を組織し、「鳥島村」と称する。
(2) 移住地において一戸平均一八〇〇坪前後の土地の配当を受ける代わりに、硫黄鳥島に現存する土地はすべて「久米島なる鳥島村」の所有とする。
(3) 家屋は一戸五〇円を最高限度として支給を受け、移転できない家屋は「久米島なる鳥島村」の所有とする。
(4) 「久米島なる鳥島村」の所有に属した土地は、硫黄採掘のために出稼ぎをする者に貸与する以外に売買、譲与又は貸与を許さない。
(5) 鳥島の基本財産及びその権利義務は「久米島なる鳥島村」へ移転する。
(6) 硫黄鉱業特許に関する権利は「久米島なる鳥島村」の名義に変更する。
そして、同年一〇月一九日、移住に関する沖縄県訓令乙第五九号が出され、同三七年二月までに移住を終えることが命じられ、これに基づき、同三六年一二月、同三七年二月の二回に分けて九七戸、六三九人の移住が実行された。なお、硫黄鳥島は、硫黄採掘を業者に委託し、労務を提供していたことから、第一次移住後も労務提供(硫黄出稼ぎ)のため希望又は交代により一部の者が流黄鳥島に住んで硫黄採掘に従事することとなり、第一次移住完了時点で残留した者が九三人いた。
齋藤は、明治三六年一二月一日付け諭告をもって、硫黄鳥島の住民に対し、今後のあるべき生活態度をさとすとともに、「故郷鳥島の地たるや絶海孤島の火山島にして将来住民の生活に適ひざるの地たるは従来数回の変災と年々官の救助を受けしに徴して之を知ることを得べし。依って今後同島に永遠の移住を為さんとする者あるも政府は之を聴ざるの趣旨に有り。之に就いては苟めにも望郷を起し為めに移住の趣旨に背くが如き陋態なく当初の目的に副はんことを努むべし。」と旨訓戒した。
前記「鳥島移住始末」とは別に齋藤が起こした「鳥島移民取扱顛末報告書」によると、島会決議により、「久米島なる鳥島村」の公有財産(齋藤自身がこの公有財産という表現を用いている。)となった元島有財産として、「鳥島移住始末」に記載されたとおりの役場及び学校の敷地、島有の山林、原野、池沼及び拝所等が挙げられており、そのほかに、硫黄採掘権、住民の私有財産であった家屋、宅地、畑地、山林、原野、墳墓地も「久米島なる鳥島村」の公有財産となったことが明記されている。
4 第一次移住後、鳥島村は、具志川間切を構成する一部落としての村となり、旧鳥島のような自治団体ではなくなったが、他の村と異なり、村会という議事機関を有していた。沖縄県間切島規程一二条は、「間切島内一部の財産又は営造物に関する事務の為当該郡長島司は沖縄県知事の許可を経特に村会を設置することを得」と定められていたが、この規程に基づき、鳥島村には村会が設置された。村会の設置は、沖縄県下では鳥島村のみに認められていたものであるが、その理由は、第一次移住前の硫黄鳥島は間切に準ずる自治団体であり、多額の固有財産を有しているため、今後も村有の財産として管理させる必要があったことにあるとされている。
明治四一年一月、勅令四五号「沖縄県間切島並東京府伊豆七島及び小笠原に於ける名称及び区域の変更等に関する件」が施行され、間切及び島が町村に、間切及び島の村が字に改称された。そして、同年四月には「沖縄県及島嶼町村制」が施行され、間切長・島長が町村長と改称された(以下「島嶼町村制」という。)。この島嶼町村制は、一般の町村制に比して自治性が弱く、町村長及び収入役は郡長の具申により県知事が、町村書記は郡長がそれぞれ任命するものとされたが、これの施行により、町村は、旧間切・島の財産を承継し、一般の町村にほぼ近い権能をもつことになり、他方、旧村が独立の行政体であることが明確に否定され、一般の町村制に類似する地方制度が成立し、具志川間切鳥島村は、具志川村字鳥島となった。
ところで、島嶼町村制八五条によると、一般の町村制の財産区に関する一一四条の規定に準じて、「町村内の一部に於いて有する財産又は町村内の一部を利する財産営造物に関し必要ある場合に於いては島司郡長は町村会の意見を徴して町村規制を制定し区会又は区総会を設けて該事件に関し町村会の議決すべき事項の全部又は一部を議決せしむることを得」と定められ、これに基づき、字鳥島においては前記鳥島村会を承継した財産区としての区会が設置された。字鳥島は、その後、字鳥島名義をもって土地を取得し、所有権移転登記を経由したことがあった。
なお、明治四一年五月、沖縄県訓令第二二号「部落有財産統一に関する件」が出され、町村吏員に対し、町村の財政を強くし、町村民の共同一致の精神を向上させるために、一部の部落が所有する財産を町村の所有に統一させるように努力することが命じられた。
5 硫黄鳥島においては、第一次移住以後も硫黄採掘が続けられ、第一次移住時から硫黄出稼人として残留し又は復帰する者がおり、そのうち一部の者は所帯を構えて硫黄鳥島に定住し、硫黄の採掘・精錬等に従事し、そのかたわら畑を耕すなどした。その者らは、第一次移住前の建物に住み、畑を利用し、山林原野から燃料用の雑木を採取するなどした。雑木の採取に当たっては、資源枯渇を防止するために、根を切ることが禁止された。このような本件係争地の利用は、島会決議(4)に基づく字鳥島からの貸与によるものであった。
そのうち、硫黄鳥島に定住する者らにより、部落常会が開かれるようになり、日常生活上の取決め等について話し合われた。そして、硫黄鳥島区と称し、区長が置かれ、昭和一八年ころには硫黄採掘業者である東洋硫黄鉱業株式会社によって小学校が設置され、硫黄鳥島区の住民らはその子弟を字鳥島の小学校に就学させる必要がなくなった。
ところで、字鳥島は、字鳥島所有の土地や硫黄鳥島の硫黄採掘権を売却したが、それは、区会の決定に基づいて行われ、硫黄鳥島区の住民らに相談が持ちかけられることはなかった。右硫黄採掘権は、昭和一一年ころに東洋硫黄鉱業株式会社に三万円で売却されたが、その代金は、一部が字鳥島経営の鳥島信用組合の赤字補填に充てられ、残りは第一次移住前に硫黄鳥島に生まれ、鳥島村に移住した者らに分配された。
具志川村が作成した昭和二六年二月の村勢要覧によると、各字別戸数人口調べにおいて、字鳥島が一七五戸、八七四人、硫黄鳥島が四一戸、二一〇人とされ別字として掲げられた。
6 昭和三四年七月、硫黄鳥島において硫黄山が再び大噴火を起こし、定住していた三一所帯、一三八名(当時の硫黄鳥島区長は東江勉)は、硫黄鳥島を引き揚げ、那覇市等に避難した。右の者らは、当初、噴火が収束すれば硫黄鳥島に帰る予定であったが、その後も噴火が続き、そのうち土地や家屋が荒れ果てるなどしたため、再び、帰ることはなかった(第二次移住)。
昭和四四年二月一一日、硫黄鳥島又は字鳥島の出身で字鳥島に居住していない者の相互扶助を目的とする硫黄鳥島郷友会七獄会(以下「七獄会」という。)が結成され、前記東江勉が会長に就任した。七獄会の構成員の中には、第二次移住時の三一所帯の各代表者が含まれており、七獄会は、昭和五二年以降毎年、硫黄鳥島を訪問している。
字鳥島は、第二次移住後にも、字有地の一部を売却し、その代金を公民館や納骨堂の建設資金に充てたりしたが、右売却の際にも七獄会に相談を持ちかけることはなかった。
7 ところで、昭和四七年八月ころ、鹿児島県大島郡天城町が、硫黄鳥島を同町に編入したい意向を持っていることが新聞報道され、これに関して、被控訴人具志川村は、硫黄鳥島は村有地であり、同村で開発するから他に譲渡することはできない旨の見解を表明した。
昭和五四年一二月には私的機関である硫黄鳥島管理推進協議会(以下「協議会」という。)が設置され、硫黄鳥島にある財産の管理運営に関する一切の問題について調査協議することになったが、委員は、字鳥島と七獄会からそれぞれ六名が推薦又は選出されて構成され、控訴人組合の代表者である東江芳隆がその会長となり、協議会の運営費用は、字鳥島と七獄会が負担するものとされた。当時、東江芳隆は、字鳥島と硫黄鳥島区が本件係争地を所有するとの認識を有していた。
そのころ、硫黄鳥島を米軍の伊江島射爆場の代替地とする沖縄県知事の構想が明らかにされたが、これに対し、字鳥島の区長國吉朝勝、七獄会会長兼協議会会長東江芳隆の連名により、右計画に反対する旨の陳情書が提出された。また、昭和五五年五月ころ、右両名は、連名をもって、具志川村長に対し、硫黄鳥島の土地は字鳥島の住民及び七獄会の会員らの共有財産であることの確認等を要求した。
ところが、その後、七獄会においては、字鳥島を除外して本件係争地の保全を図ろうということになり、昭和六一年六月には七獄会会長東江芳隆、鳥島区長東江勉の連名をもって、那覇警察署長に対し、硫黄鳥島における樹木採取防止の措置を講じてほしい旨の陳情をするとともに、島内に警告の看板を掲げ、硫黄鳥島への出入り、樹木の採取等を禁ずる旨表示した。
8 被控訴人具志川村は、かねてから、硫黄鳥島の国有地以外の土地は字鳥島の所有に帰した後、前記沖縄県訓令「部落所有財産統一に関する件」に基づき、具志川村長が大正三年に統一に関する処分の許可の申請をし、その許可に基づき、硫黄鳥島の国有地以外の土地等の字有地を統一したものであり、これについては、同被控訴人の所有に属する旨の歴代村長の引き継ぎがあるなどとして自己の所有権を主張してきた。そして、現在、字鳥島としては、同被控訴人と共同した硫黄鳥島の国有地以外の土地を管理しようと考えている。
なお、硫黄鳥島の土地については、従前から固定資産税が課されていない。
二1 右認定事実に基づき検討を進めるのに、まず、争点<4>についてみると、明治三一年には硫黄鳥島は公法人となっていたところ、同三二年から同三六年までに行われた土地整理により、硫黄鳥島の国有地以外の土地のうち、一部の宅地、畑、山林、原野等が私人の所有となり、それ以外の役場敷地、山林等が硫黄鳥島の所有になった後、同年の第一次移住時の島会決議により、硫黄鳥島の国有地以外の土地は、すべて硫黄鳥島に代わる鳥島村の所有となり、同四一年の島嶼町村制の施行により、字鳥島がこれらの土地を所有するようになったことが明らかである。そして、字鳥島は、島嶼町村制による財産区であり、また、その前身である鳥島村も、間切を構成する一部落でありながら、区会をもち財産を所有することができたものであり、実質的には後の財産区に相当するものであったと認められるので、字鳥島は、財産区として硫黄鳥島の国有地以外の土地を所有していたものというべきである。この点について、控訴人は、字鳥島は財産区ではなく、具志川村の一部落にすぎなかった旨主張するけれども、字鳥島は、間切に準じて公法人であった硫黄鳥島の地位を承継するものであり、区会が設置され、固有の財産を所有し、不動産について登記能力を有していたことなどからして、島嶼町村制に基づく財産区であったと認めるのが相当であり、控訴人の主張は採用できない。
もっとも、土地整理により、硫黄鳥島の国有地以外の土地のうち、私有地以外の土地が形式的には硫黄鳥島の所有になったものの、実質的には実在的総合人としての部落住民らの総有に属していたとみる可能性は否定し去ることはできず、また、財産区の所有に属する土地であるからといって直ちにそれを構成する部落住民による総有の土地であることが否定されるものではないけれども、本件においては、火山の噴火のため部落全体で移住し、その費用について多額の公的援助を仰ぎ、硫黄出稼ぎの場合を除き、将来再び硫黄鳥島に帰住することのないように郡長から訓戒されるなどの状況下で島会決議が行われ、これにより、移住先において各私有地が授与される代わりに、役場敷地や私有地も含めて国有地以外のすべての土地が鳥島村の所有となったのであり、今後、移住した住民らにとっては、硫黄出稼ぎの場合にのみ貸与を許されて使用すること以外にその土地を使用する可能性が否定されたのであるから、もはやこれらの土地を、移住した住民らによる総有という所有形態として残すという事態は考え難いというべきである。したがって、硫黄鳥島の国有地以外の土地は、実質的に財産区といえる鳥島村の公有財産となったものであり、その後は島嶼町村制の施行により財産区である字鳥島が公有財産として所有するようになったと認めるのが相当である。なお、前記「鳥島移住始末」には、区会を有する字鳥島の基本財産として、明治一六年に受けた給付金を元にした基金、硫黄採掘権、字鳥島によって設立された鉱業組合及び産業組合(信用組合)しか掲げられていないけれども、鳥島移民取扱顛末報告書の記載に照らすと、右は、硫黄鳥島の国有地以外の土地が含まれることを否定する趣旨ではないと認められる。
そうすると、仮に硫黄鳥島には里道がなかったとしても、硫黄鳥島の国有地以外の土地といえる本件係争地が字鳥島の部落住民らの総有に属していたと認めることはできない。
2 次に、争点<5>についてみると、控訴人の主張は、本件係争地が字鳥島の部落住民らの総有に属していることを前提としているものであるから、右1の判示からして右前提を欠くものといわざるを得ないが、この点はさておき、仮に本件係争地が字鳥島の部落住民らによる総有であったとして、控訴人の主張するような総有者の分裂による本件係争地の承継があったか否かについて検討するのに、そもそも総有者の分裂という概念自体、きわめてあいまいであり、これを物権変動の原因事由として肯定することはできない。のみならず、硫黄鳥島区の住民らが字鳥島の住民らから本件係争地を取得したといえるためには、何らかの実体法上の原因事由がなければならないところ、これを認めるに足りる証拠はなく、むしろ、控訴人と構成員を一部共通にし、同じ会長をいただく七獄会が、当初、本件係争地は字鳥島と硫黄鳥島区の各住民らの総有に属するとして、被控訴人具志川村にその旨の確認を要求するなどしていたことなどに照らすと、字鳥島から硫黄鳥島区に対する本件係争地の譲渡又は承継はなかったことが窺える。
3 以上によると、いずれの点からしても、本件係争地が硫黄鳥島区の住民らの総有に属していたと認めることはできないから、控訴人の本件請求は前提を欠くものとして理由がない。
第三 結論
よって、控訴人の当番における請求を棄却することとし(控訴人の原審における請求は、請求の減縮の後、訴えの交換的変更により取り下げられた。)、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大塚一郎 裁判官 坂井満 伊名波宏仁)